コラム「マスクマン悪霊を追い払う」 [最終更新日:2012年7月7日]
現代数学社「理系への数学」誌の巻頭言「数学戯評」(2011年11月号)より

マスクマン悪霊を追い払う
米谷達也

 8月上旬のこと,数理哲人講師から代理人である私のもとに,連絡が入った.「高速道路上で交通事故に遭った.車ごとバックドロップとジャイアント・スイングを喰らったが,受け身をとってしのいだ.奇跡的に軽傷で済んでいる.心配をかけた」というのだ.次の仕事場に向かって深夜に高速道路を走行していた.車の調子があまりよくなかったという事情もあり,慎重を期して,法定速度遵守の時速80キロメートルで走行していた.天候は小雨で,下り坂の緩い左カーブで走行車線を走っていたところ,突然ハンドルがロックされて操縦不能になったのだという.

 ハンドルは左向きにロックされたままだったので,走行車線左側の斜面に乗り上げた.車はほどなく転がり始める.前輪が宙に浮き上がるのを察知し,「ここで死んでたまるか」と,ハンドルを握ったまま,首を前に倒す姿勢の「受け身」をとった(バックドロップ).その後,車はサイコロのようにごろごろと転がった後,天井を地面に接した状態で,回転しながら道路上を滑走した(ジャイアント・スイング).頭の近くでゴーッと激しい摩擦音が続くのを聞きながら「おい,このやろ〜」と首を倒した受け身の姿勢を続けた.天地が逆さまの状態で滑走しているので,頭部をハンドル近くにキープしていないと,地面に頭を持っていかれて即死だ.いずれどこかにぶつかることに備えて両腕を頭部とハンドルの間に置きながら,じっと受け身の姿勢を保っていた.

 ほどなく停止したので,天地が逆さまの状態で,シートベルトをはずし,狭い空間の中で体の天地を直した.高速道路上なので、後続車に追突させないよう,直ちにハザードランプを点滅させる.最初の後続車が横を走り抜けて,直後の追突は避けることができた.脱出しなければならないが,フロントガラスは蜘蛛の巣,左右のガラスは割れているものの,体が出せるようなスペースではなく,左右のドアはいずれも変形して動かない.携帯電話を探しても車内は暗く見あたらない.足下にあるはずの天井はなくなって,ガラス片が散乱している.額からは流血し,左腕と左手小指付近も切れているが,これで失血死することはなさそうだ.このまま脱出できないと,追突されるか,火災になるか,レスキュー隊に救出されるかの3つに1つ.脱出も通報もできない,人生最大のピンチが訪れた.

 改めてもう一度脱出の方法を探り,360度をくまなく見渡してみたところ,車体の後部が開いていた.出口がある!さらなる受傷を避けるため,マントを使ってガラスを除けながら,脱出に成功した.救急病院で手当を受け,脳・骨・内蔵に異常がないことが確認され,無事に生還することができたのだという.

 車が大破・全損するような大事故から生還できたポイントとして,頑丈な車体という要因とともに,強靭な気力と冷静な判断力を維持したことが大きいと考えられる.あきらめるな,平常心を保て,という日ごろの教えを「おい,このやろ〜」という掛け声に込めている彼が,身をもって実践したのだ.かくして,マスクマンは悪霊を追い払った.

 気力を維持することは,幸福追求や社会的成功のためだけでなく,いざというときの生存にも必要だ.実際,病で余命1年以内と宣告されたが,気力で蘇った人の例はいくつもある.これが「おい,このやろ〜」の教えなのだ.

 これまで不死身のつもりで精力的に活動していた数理哲人講師であるが,今回はじめて「いつかは死ぬ身である」ことを具体的に意識した.その結果,万人に思考の自由を,という彼のビジョンを実現するために,さらに集中力を高めなければならないし,その妨げになるものは取り除かなければならないと考えたという.だから,今後も東北を含めて日本中を走り回る.マスクマン(覆面の貴講師)としてやり抜かなければならない使命が残っている.生きろ.生きてやり遂げよ,という天命が下ったのだ.




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